11/6 トークゲスト廣瀬純さん

11月6日の上映は前日、TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」の1コーナーシネマハスラー宇多丸さんが大絶賛してくださったこともあって、全回満員御礼となりました。

そんな熱気に包まれた6日の上映最終回後は、思想家の廣瀬純さんをお迎えしてのトークショー

とにかく廣瀬さんのお話しが面白い!お話しの内容ももちろんですが、観客の皆様に問いかけるようなその独特の語り口調でこの日のトークショートークがおもろいと定評の空族も喰われ気味でした。

廣瀬さんは、スクリーンで『サウダーヂ』を観るのはこの日で三回目という、『サウダーヂ』中毒。
トークショーはそんな『サウダーヂ』中毒の廣瀬さんが、空族と、観客の皆様に何故こんなに繰り返し『サウダーヂ』を観たくなってしまうのかという疑問を投げかけるところから始まりました。

そして、その疑問に対する、廣瀬さんなりの解答はこう、観終わるとあの世界と切れちゃうからではないか。
この言葉には少々驚かされました。今まで、『サウダーヂ』は現実と地続きだから面白いという意見は聞いたことがあっても、現実と切れてしまっているという意見は聞いたことがない。
ここで廣瀬さんが例として挙げたのが、劇中でかかる「ある曲」
今まで一度もいい曲と思ったことがないのに、『サウダーヂ』でかかると、なんていい曲なんだ、と。
さっそく自分のipodに入れなければ、とiTunesで購入、とその前にもう一度だけ試聴。
全然いい曲じゃない、やっぱり!
ヒッチコックの『鳥』は一度観れば、観客は劇場の外でスズメを見ても「おお!」となるけど、やっぱりどうでもいいあの「ある曲」を聞いて感動するためにはもう一度『サウダーヂ』を観るしかない!

この回答には、ああー、そういうことか、と空族は納得。観客の皆様は爆笑。

登場人物のだれもがタイやブラジル、あるいはセレブリティな世界など、ここではないどこかへ想いをはせ「サウダーヂ」を抱いている、現実をくだらない世界として生きている。そんなクソとして生きられている世界にもう一度行きたくなってしまうこの感覚は何なのか?だからぼくは『サウダーヂ』にサウダーヂ?みたいな、と廣瀬さん。

さらに最近はまっているという『SEX AND THE CITY』を例に挙げ、現実のニューヨークに行ってもきっとこうじゃないだろうから、もう一度あのニューヨークに行くには観るしかない。『サウダーヂ』も同じで、もう一度観るしかない。


そしてこの日驚かされたもう一つの言葉が、『サウダーヂ』には新しいものなど何一つ映っていない、普通のものしか映っていないという言葉。

地方の現実がある程度知られている中で映画は怠慢にもそこにカメラを向けてこなかったが、新世代の空族はそこにカメラを向けたのである、といった文脈で語られがちだが、そこに映ったものが全然新しくないということが重要なのだと。

シャッター通りや不況にあえぐブラジル人、右翼ラッパーのリリックなど、テレビやインターネットなどで地方に暮らしていないものでも適当に知っていることが、どうせ地方都市なんてこんなもんだよね、と思っていることが事実その通りである、このある種のビックリさ!?
知識として知っていることが実際に生きられてしまっている悲劇!?
さらにその俗物感。
納豆をめぐって日本人とタイ人がもめるシーンがあるのだが、納豆をめぐって喧嘩になるとは聞いてたけど、え!?やっぱりそうなの!?という俗物感たるや驚きですよね。
登場人物も俗物ばかりなのになぜか愛おしい
どの俗物も気に入らないんだけど、スクリーンでもう一度会いたくなってしまう。
だいたいブラジル人が出るから『サウダーヂ』って適当すぎないか!?

廣瀬さんに「俗物」、「ベタ」と連発され、空族もだんだん自分たちがベタな人間なんじゃないかと思えてきましたぁ、と苦笑い。

つい、リアルだとか、ドキュメンタリーのようだとか語られがちだが、重要なのは、リアルという認識と、現実の間に実際にかい離が無いことなのでしょう。

これだけ普通のこと、ベタなことしか映っていないのに、なぜかまた観たくなってしまう不思議?これを解明することが空族学なのではないか、と廣瀬さん。

富田監督も自分がそこまで計算して撮っているかと言われれば自信が無いと言っていたが、まさに空族が言葉にしないまでも、完成系としてイメージしていたものはそういう、当たり前を積み重ねているのに中毒性を持った作品なのではないかと思わされました。

ある意味『鳥』は一度観れば十分な親切でコミュニスト的な映画、『サウダーヂ』は何度も観たくさせて観客に何千円もかけさせるキャピタリスト的な映画。この人、そういう顔してるでしょ?とついには富田監督の顔つきまでいじりだす廣瀬さん。会場は大うけでした。

解放宣伝隊 もりこ